2007年11月17日土曜日

みちのくに紙

前回に書いた国際研究集会は予定通りに行われ、「戦場の便り」と題する短い研究発表を無事終えた。発表の内容は、絵巻『後三年合戦絵詞』の一場面をめぐるものだった。

すでに31回目と数えるこの研究集会は、毎回あるテーマを決めて行われ、今年のそれは「手紙と日記」であった。一方では、「後三年」には手紙を取り扱う一つの画面があり、これを理解するためには、手紙についてのアプローチが必須となる。というわけで、平安・鎌倉時代における手紙のありかたを調べる、ということで研究発表の準備に取り掛かった。

いうまでもなく鎌倉時代にはいまだ「手紙」という用語が使われていなかった。しかしながら、手紙という交流の手段は、いわば今日の手紙、電子メール、電話と、個人間の通信交流のすべての手段を兼ねてしまい、それこそ社会生活の中の重大な内容だった。これを表わす言葉には、絵巻の詞書にあった「文(ふみ)」がまず挙げられる。さらに、「消息」「雁の使い」など、異なる文体などにおいて多様多彩な語彙があった。

文字文献において以上のような言葉への追跡の中で、さらに平安の貴族生活での紙へのこだわりに気づいた。その代表格のものは、「みちのくに紙」、すなわち陸奥の地名によって名づけられ、檀の樹皮をもって作られた上質な紙である。たとえば『枕草子』には、「みちのくに紙」が繰り返し登場した。清少納言は、これを「心ゆくもの」「うれしきもの」など、気に入りのものとして数えただけではなく、さらにつぎのような形で細かくこの紙への思いを記した。腹立たしいことがあって、いっそうどこかへ消えてしまいたいという気分になってどうしようも出来ない時など、みちのくに紙さえあれば、気持ちが和められ、生きている気がするようになる。みちのくに紙とは、まさにハイ・カルチャーの代表である手紙に形を持たせる、王朝物質文化のハイライトを成すものだった。

ここには、あるいは「後三年」の手紙をめぐる画面成立の秘密が隠されていたのかもしれない。義家の合戦が繰り広げられたのは、まさに陸奥の地だった。土地と、それから生死に直面する武士たちの姿を想像し、それを文学的に都にいる読者に伝えるために、武士と手紙との出会いが生まれたのではなかろうか。時代の文化や社会の生活の実態、そしてそれらへの思いや理解こそ、画像表現の基底にあるものだった。そして、このような推測を認めるとすれば、画像の構図を作り出すための一つの思考の実例を見たことになる。

ちなみに『後三年合戦絵詞』(重要文化財)は、東京国立博物館に所蔵され、博物館サイトにてややサイズが小さいが、絵巻全点のデジタル画像が公開されている。「図書・写真検索(カラーフィルム検索)」を辿ればすぐ分かる。

東京国立博物館(図書・写真検索)

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