2008年2月13日水曜日

双六を舞台に見る

今月いっぱい、新橋演舞場にて「わらしべ夫婦双六旅」と題する舞台劇が上演されている。大正時代を背景に取り、心温まる人情劇を、中村勘三郎、藤山直美、矢口真里をはじめ、現代の演劇界を代表する豪華なキャスト陣が熱演する。友人が親切に手配をしてくださったおかげで、素晴らしい舞台が堪能できて、ただいま観劇から戻ってきた。

前回に書いたように、同じ「双六」という言葉でも、平安と江戸とではまるきり違う対象を指していた。そして、いわゆる紙双六を意味する「双六」という用語の使用法は、明治、大正にかけて継承され、現在でもお正月の少女雑誌の特別付録などの形で双六が作成されつづけているものだから、今でも生きている言葉である。あえて言えば、多くの双六の作品は、最初からゲームとして遊ばれることをさほど意識されなかった。むしろ特定のテーマをめぐり、さまざまな情況、とりわけ良いことも悪いことも並行に、一堂に集めることを特徴として、それらをじっくり眺めることに醍醐味があると言えよう。したがって、双六とは、一つのゲームというよりも、伝統色豊かな出版文化の一ジャンルである。

一方では、中村勘三郎の舞台劇は、もちろん以上のような理屈っぽい理解にこだわることがなかった。劇の宣伝資料も、舞台一面に立体的に用いたデザインも、典型的な双六の色合いと模様である。「夫婦双六」と名乗ったのも、二組の夫婦の生き様を、幸運と悲運に押し流されての、上がったり、下がったりしたものだと捉えたからにほかならない。だが、それと同時に、ゲームとしての双六とセットになる賽(サイコロ)もストーリーの眼目となり、さらに賽からの連想で、紙双六とはまったく無縁の賭博まで繰り返し演じられた。夫婦の生活、そして人生の一生そのものを一枚の双六に見立てる、これこそこの舞台劇の発想であり、現代の人々に簡単に理解できる双六というものの象徴的な意味に違いない。

海外舶来の遊戯、出版文化のジャンル、そして教訓的な比喩。「双六」とは、まさに一つの概念が変遷する極致な実例を見せつけている。

わらしべ夫婦双六旅

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