2008年2月23日土曜日

巻物の変身

先日、「巻物の日記」(2月3日)を書いて、本心とても適えられそうもないと諦めつつ、軽い気持ちで「本人の思いを聞きたいものだ」と結んだ。しかしながら、読書を進めていくうちに、「本人」ではないが、なんと答えが現われてきたんだ。単純でいて、しかし自分の想像にはまったく浮かばなかっただけに、いささか衝撃を受けた。

なんのことはない。巻物という形態は、もともと冊子という装丁と隣り合わせのものだった。右の図(『日本史用語大辞典』より)が示しているように、巻物を披いた状態で、繰り返し折りたたんだら、そのままりっぱな冊子に変身する。そうしておいたら、冊子本がもっている「飛ばし読み」に対応する特徴などがすべて保証され、しかも必要があれば、巻き上げて一瞬にして巻物に戻ってしまう。日記の研究者たちによれば、現存する日記、それも『名月記』『実隆公記』といった広く知られているもののいくつかの巻には、折本に仕立てておいて筆記しはじめたもの、あるいは巻物で書き上げてしまってから必要に応じて折本に折った跡が鮮明に伝わっている。さらに、たとえば『実隆公記』の場合だと、記主の三条西実隆は、巻物、冊子、再び巻物と、記入するにあたって意識的に違う媒体を選んでいた。いわば媒体そのものが変身するのみならず、書く人も、さまざまな考慮から「変心」をしていたものだった。

今日のわれわれが推測する巻物の不便さを数百年前の古人たちもたしかに感じていたことを知って、なぜかほっとする思いだった。そして、その中で当時の人々があえて巻物を選んだことにはきっとそれなりの理由があったことも推測できる。同じく先学の説によれば、冊子本に較べて、巻物にはすくなくとも二つの利点があるとのことだ。一つは、当時の日記は関係の文書などの書類を纏めて保存するという役割があり、そのため、断片のものを日記に貼り付けるため、巻物ならそれらを巻き上げて保存するには最適だった。いま一つ、暦などに日記を記すにあたり、紙の裏をあわせて利用するという情況もあり、表と裏を合わせて使えるということは、これまた粘葉綴の冊子本に備わらない特徴だった。

書物の物理的な展開と屈折、尽きない想像を誘う。

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