2008年3月18日火曜日

『義経地獄破り』雑感(宮腰直人)

今回、楊さんのお誘いで、勉強し始めた頃から関心を抱いている『義経地獄破り』の現代語訳の「音読」を試みる機会を得た。不思議な魅力をもつ、「音読」の世界にふれる貴重な機会をくださった楊さんにまず感謝申し上げたい。

「音読」をやってみてわかったことは、声をだして物語を読むという行為が思いのほか楽しいという事実である。たどたどしくも文字を声に変換し、物語を追いかけることが、テキストの起伏を丁寧にたどることになる。テキストにいつも声が従うわけではない、むしろ、慣れない音読においては声がテキストを省略したり、言いやすい言葉に言い換えたりする。物語の見せ場では気分を高揚させるし、教えが示される場面では、一つ一つの言葉を味わいながら、じっくりと読むことになる。「音読」は、自分のなかの「語り手」と「読者」がせめぎあう様を発見する装置となるのだ。今回の音読によって、例えば怪力の武者たちが勢ぞろいする、地獄の門破りの場面はやはり盛り上がる場面だったのにちがいないことを実感した(「動画絵巻」 2008年3月12日)。

物語の読者が語り手でもある――ごく当たり前のことのようだが、現在の私たちには、案外実感としてつかみにくいことのようにも思う。テキストに導かれるままに「音読」すると(忠実に「音読」することは難しいと痛感)、そこには読み手の力量に応じた物語の世界がそこにあらわれる。読み手の数だけ、そこに物語が生まれるのである。滅多に紐解かれることのない、「秘蔵」の絵巻も含めて、一巻の絵巻、一册の絵本に秘められた様々な可能性が探られてよい。「音読」は、その試探の重要な手がかりの一つなのである。

ささやかな「音読」体験からは、テキストの言葉が、時間や場所、相手等、状況に応じて変換し得ることがすぐに想像される。さらに『義経地獄破り』が絵も伴うことを加味すると、テキストの言葉は、周囲に絵があったかどうかでもその改編の度合いは異なっていたのだろうことが想像される。中近世の文芸、とりわけ絵巻や絵本には、言葉と絵、そして音声と、様々な語りの媒体をめぐる、たいへん興味深い問題が横たわっている。テキストを尊重しつつ、「音読」から示唆される、柔軟性のある物語経験を捉えてみたいと思う。

さて、じつは『義経地獄破り』には、物語内の私たちの代理人ともいうべき、「修行者」がいる。詳しくは『甦る絵本・絵巻義経地獄破り』を参照して頂きたいのだが、少年姿の「修行者」によって、読者は存分に義経達の活躍を楽しむことができるのである。私が夢想するのは、彼になりきって、地獄破りの物語内外に溢れていた声や音に耳を傾けることである。この点につき、注目すべきことがある。それは、前後関係は定かではないものの、『義経地獄破り』が古浄瑠璃正本でも刊行されていたことだ(『新群書類従』九)。太夫により語られ、人形によって演じられた義経の地獄制覇の物語は、絵本の読者たちとどう響きあっていたのだろうか。

「音読」から絵巻や絵本の世界にふれるとき、黙読とは異なる、もうひとつの親密な物語の世界が開けてくることは間違いない。ただし、それがかつての読者たちの経験とどこまで重なるかどうかは慎重にならざるをえないのだけれども――『義経地獄破り』を人々はどう読んでいたのか。あるいは絵本の作り手たちは、どんな思惑でこの物語を送り出したのか。この問いを考えるヒントは、どうやら古浄瑠璃正本『義経地獄破り』の「音読」にありそうだと、今密かに考えている。

【「音読・義経地獄破り」共同作者の宮腰さんが原稿を寄せてくださった。深謝。】

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