2008年3月26日水曜日

デジタル情報の担い手・その二

数ヶ月前、同じタイトルで書いてみた(2007年12月16日)。去る日曜日のチェスタービーティー・ライブラリーでの研究発表では、その文章で述べたいくつかの要点を触れた。発表が済んだあとの夜の飲み会で、図書館の運営に携わったある方と興味深い議論を交わすことできた。同じことに対する違う立場からの鋭い視線を教わり、ぜひともここで紹介したい。

<前回に書いたことの引用>
「たいへん貴重なデジタル情報を提供していながら、それをなんのために提供しているのか、図書館という役目には沿っているかどうかということに、曖昧なままに続いていることが読み取れる。」
<ご指摘>
図書館の運営だって、大学なり政府機関なり、それの母体があるものだ。そのような機関の思惑、方針、ひいては利益が図書館の運営に反映されることを見過ごしてはならない。
<コメント>
社会の一部分である図書館である以上、すべて図書館の倫理だけで動くことができないことに気づかされた。ならば、良識ある意見を図書館のみならず、社会全体に訴えるべきものだ。

<引用>
「これまでのデジタル情報の公開者からは「公開されたものが悪用されはしないか」との心配はよく聞かれる。」
<ご指摘>
文明の進歩という目で見れば、「悪用」だって一種の情報応用であり、それをすべて除外するわけにはいかない。
<コメント>
まさに情報を取り扱う立場からの発言であり、寛大な心を表わしているだけではなく、文明進歩の本質を見極めた上での発言だと言いたい。悪用とは悪だと、良識をもつ人なら判断できるはずだ。しかも、価値ある情報は、悪用までされれば、「善」用が必ず付くものだと信じて良かろう。

<引用>
「それのもっとも端的な動きは、グーグルと慶応大学図書館との共同作業だろう。」
<ご指摘>
営利を目的とする一会社が、営利の見込みなど到底ない分野への進出は自ずと限界があり、そのうち失敗を悟って撤退するのではなかろうか。それに翻弄されないことがむしろ大事だ。
<コメント>
情報の使用者である読者の目とそれを管理・提供する図書館の役割との距離を端的に感じさせられた見解である。問題の本質をよく考えているだけに、傾聴すべきだ。ただ、あえて反論を加えよう。ここの「商品」とは、人間の知恵の集合であるだけに、たとえ営利という目標が成功しなくても、その成果が完全に切り捨てられ、なにも残らないという結果にはならないことだろう。まして、営利としても成功するというシナリオを完全に除外することなど、まだ早すぎる。現にわれわれの目の前には、JSTOR (Journal Storage) 、CAJ (China Academic Journals)といった成功したビジネスモデルがすでに存在しているものだから。

なお、このような交流ができることは、まさに学会ならではの魅力だ。ブログの性格上、個人名を記さないが、つたない発表をここまで聞いて、正面から反論を聞かせてくれたことに深く感謝する。

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