2008年4月6日日曜日

祥雲に乗った楽器たち

遠来の友人を誘い、前回書いた「花下遊楽図屏風」を拝観し、ほんのりと照らされた夜桜を博物館の閉館間際まで堪能した。それと共に、博物館本館で開催されているもう一つの企画展示「絵巻――模本が伝える失われた姿」をも楽しんできた。

そもそも絵巻の模本は、公の場にあまり取り上げられていない。学術研究の見地からいえばいずれは避けて通れないものであり、しかも実際の古本の市場においては評価が日に々々増しているが、その扱い方にはいまだ十分に定まっているとは言えない。その中にあって、この展示のタイトルには強く惹かれた。

特別陳列は、「失われた絵巻たちを模本を通じて見」るという方針のもとで、『天狗草紙(興福寺巻)』はじめ九点の作品を十分にスペースを取って展示している。その中では、とりわけ『大山寺縁起絵巻』の一続きの画面を思わず見入った。

画面が表現したのは、仏の来迎と浄土への往生というテーマである。しかしながら、吉祥天女といった見慣れた構図を取らず、その代わりに瑞祥の雲に乗ったのは、数々の和楽器であった。笙、篳篥、笛、小太鼓、鉦鼓、書き出すとじつに長いリストになる。それらの楽器の一つひとつは、人の手から離れてそれだけで舞い上がり、長くて綺麗な帯をたなびかせながら、まるで命を得たがごとく空の彼方へ飛び行く。浄土への往生というテーマにおいては、祥雲の上に、貴人、牛車、輿、ひいては人を乗せたままの馬など、さまざまな構図が絵巻の中で確認されている。その中でも、突然に生命を得た楽器という物体群は、なんとも異様で、奇抜な想像を見せている。

絵巻の前に立ち尽くして、画面の表現から食み出した突拍子もない連想を捉われ、それをあえて記しておこう。空を飛び上がった物体は、なぜかわたしには、賑やかに都の夜を繰り出したあの百鬼夜行の行列を思い出させてしまった。人間の常識を超えた生命力が、画面の奥からひしひしと伝わったからだろうか。

絵巻――模本が伝える失われた姿

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