2009年6月20日土曜日

安禄山の醜態

美人の誉れが高い楊貴妃といえば、入浴を連想するというのが中国の古典教養の一つに数えられる。風呂上りのエロチックな状況がどれだけ語られてきたのだろうか。しかしながら、同じく「長恨歌」をテーマにする絵巻を披いてみれば、そこにはなんと美女ならぬ、いい歳をしているお爺さんが湯船に漬かっている。顎に蓄えたりっぱな髭、締まりを失った裸の体、わけの分からない神妙な表情、過剰なほどに着飾った妙齢の女性たちに囲まれて、まったく不思議な構図だ。堂上には、年齢不詳だが、少なくとも湯船の中の男よりは若く見える男女が対座して、これを見つめる。予備知識を持たないでこれを見れば、誰もが唖然とさせられるものだ。

絵巻の詞書を読めばようやく描かれている事情が分かる。つぎのような一行がある。
  かの安禄山をはたかになしてむつきのうへにのせて生れ子なくまねを
  しけるををかしかりて(かの安禄山を裸に成して襁褓の上に乗せて、
  生れ子泣く真似をしけるを可笑しかりて)
裸を晒し出しているのは、かの悪名高い安禄山なのだ。ならば堂上の男女こそ玄宗皇帝と楊貴妃である。すなわちここでは安禄山が皇帝と貴妃を自分の生まれの親として拝め、そして二人を楽しまそうと、赤ちゃんの真似事をしたのだった。オムツや泣く仕草などはそのまま絵にするのではなく、産湯を使うという、いっそうショッキングな活劇を演じさせたのだった。いうまでもなく絵に描かれたのは豪華な宮廷風景だが、詞書はこれをしっかりとスキャンダルとして語り、しかも玄宗皇帝のありかたを批判すべきものだと、戒めの文言を忘れなかった。

このような奇想天外なエピソードは、はたして中世の日本の文人たちが作り出したものだろうか。はたまた中国関係の文献からなんらかのヒントを得て、それを敷衍した結果なのだろうか。一件の説話としての著作権の帰属はさておくとして、楊貴妃をめぐる宮廷政治への批判という立場は間違いなく受け継がれている。一方では、エピソードの骨組みは、例の「二十四孝」の教えに妙に沿っている。いわば親を楽しませることが最大のテーマであり、それを達成させるためには、自分を忘れ、自然の摂理を無視するまでに人為的な演出をしてしまう。思えば、絵巻のビジュアルな表現は、そのような古風の教えや精神まで朗らかに哄笑のターゲットに祭り上げたのではなかろうか。

京都大学附属図書館(谷村文庫)蔵『長恨歌抄』
大阪大谷大学図書館蔵『長恨歌絵巻』

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