2011年6月18日土曜日

古典現代語訳

英語圏で生活しているせいもあって、翻訳はいたって身近なものだ。それも日本語となれば、身の回りのものとあまりにも離れているから、異なる文字がつねに踊るようなインパクトをもって目に飛び込んでくる。

一方では、同じ日本語の文献においての古典現代語訳は、どうなるのだろうか。似たような感覚をもつ人もきっと少なくないはずだ。古典テキストの「けり」「たり」を見れば、さっさと目を移してしまう。そのような感覚が求めようとしているのは、丁寧な現代語への翻訳だろう。となれば、じっさいにそのような翻訳がはたして十分に行われているのだろうか。それが、大きく言えば二つの流れになっているのではないかと思う。一つは学問の翻訳で、一つは鑑賞の翻訳である。どちらも十分に多く行われたわけではない。前者は、古典全集などのシリーズものの一部などの形で提供され、その延長に教科書あるいは教育参考書にもなる。後者は名の立つ文学家たちの作業に思いが付く。「源氏物語」だけで言葉通りにさまざまなバージョンを重ねてきたことが、それの象徴的な結果だろう。さらに言えば、前者は正確さを最高の目標として、後者は意図的な創作、あるいは感性をつぎ込むことを追求する。

このような捉えをするならば、両者の中間に位置するものは、まさに古典の外国語への翻訳だと思えてならない。原文への忠実をモットーとしながらも、それに過度に拘らないで、読みやすく、しかも過剰な文学性などを訴えることがない。あるいは同じ日本語への現代語訳も、そのようなあり方を狙うべきかもしれない。普通の読者が肩を凝らないで古典を楽しむ、遠い昔の人々の感性を素直に追体験する。いずれはそのような環境が出来上がってくるに違いないと、ひそかに期待したい。

0 件のコメント: