2011年8月6日土曜日

カメラを構える・続き

京都の街角を歩いていれば、写真の対象になるものが次から次へと目に飛び込んでくる。しかも観光客を大事にする町だけあって、カメラを大げさに構えていたら、まわりはすべて理解のあるまなざしを向けてくれるし、先日は、一度英語で声をかけられたことさえあった。しかしながら、カメラレンズの先は山や花ならいざ知らず、それが由緒あるお寺などとなれば、とたんにさまざま常識が絡んでくる。

国宝レベルのものであれば、たとえ高い拝観料を払わされても、問答無用の禁止だ。それも、普通の説明では伝わらないことを実際に分かっているからだろうか、カメラ没収などの警告文句を添えて、さまざまな外国に翻訳されて告知されていて、その告知自身が一つの風景だ。これより一ランクの低いところとなれば、三脚禁止、あるいは、山門を潜ったら撮影禁止という規則が多い。きっと修行の邪魔にでもなるからだと思って中に入って覗いてみれば、かなり荒れ果てた、だれもいなくて、手入れがまったくなっていない古い庭だった。眺めていて不思議な気に打たれる。いうまでもなくまったく逆の状況にも出くわした。古びれた山門の裏側には大きなサイズの張り紙が貼られ、よくよく見れば、そこを撮影した写真がどこかの写真コンテストに入賞したとの報告だった。

110806建物などをめぐる撮影禁止とは、はたしてどういう発想から来るものだろうか。建物などは最初から人々の目に映るものであり、それをより多くの人々に見せても、価値が増えるだけあって、減ることはなかろう。限られた想像力で考えてたどり着いたのは、あるいは日本ならではの撮影愛好家たちのスタイルに関連するのかもしれない。何々ファンのような、大群で押し寄せるような熱狂的なまなざしには対応しきれないということは、一つの理由にはならないのだろうか。しかしながら、遠出で東京国立博物館を訪ねたら、館内において大きなカメラを構えた人々、それもどう見てもプロではないカッコウをして歩き回っているのを目撃して、かなり意外な思いだった。思わずスタッフに尋ねてみた。なんと、常設展だから、特定の作品以外なら撮影可能、との答えだった。これまたなんとも言えない嬉しい驚きだった。
(写真は西本願寺阿弥陀堂)

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