2014年8月10日日曜日

巨大な碁盤

学生時代から、舞台劇を観るのがを愉しみの一つにしている。舞台上に立つ俳優たちの演技力や、ドラマの進行などとともに、限られた空間、そしていつもは限られた予算によって限定された大道具の出来栄えやその使用の仕方にも注意を奪われる。それがたとえちゃちで、見え透いたものであっても、ときにはそうであるほど、魅力を覚えてしまう。

絵巻の画面を眺めていて、ときどきそのような舞台の大道具と錯覚する。言い換えれば、空間や情況の設定に合わせ、背景となる建物や家財道具の類は、それがそうなのだと分かるぐらいで十分で、それ以上の配慮を与える余裕などとてもなくて、まるで舞台装置そっくりの役目しか担わされていない。た20140810とえば、右の画面がよい実例だ。「慕帰絵」に描かれる鎌倉の唯善房の屋敷である。画面の中で異様に存在感のあるのは、巨大な碁盤である。近くの人間、そして置かれている床の畳まで意識して見つめるほどに、妙なものだ。そういえば、品物のサイズには、まったく無頓着、しかもそれは一点のものに限らず、周りの物体や建物全体にかかわる。描かれた人間を基準にすれば、それらは異常に大きかったり、小さかったりする。もともとそのような観察は、現代の写真などを見慣れた視線のもとに現れた感覚にほかならない。

ただし、舞台装置なら、たいてい必要最小限のものに限る。そう考えれば、巨大な碁盤は、まったく逆の、不必要でかつ最大限のものに映る。この違いをどう解釈すべきだろうか。詞書には登場しない、ストーリと必然性を持たない碁盤は、はたして何のメッセージを訴えようとしているのだろうか。答えが見いだせないままでいる。

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