2016年5月14日土曜日

子どもの姿

すでに六年前にもなるが、東京にある大学の学生たちのためにネットを通じて講義するという機会が与えられ、それがずっと年一回の形で続けられてきた。数えて六回目のそれは、この間の水曜日に行った。今度取り出したテーマは、絵巻にみる読み書き。一回目からずっと続いてきたやり方に従い、前もって四十分程度の内容を動画で用意し、それを見せたうえで、残りの半分ぐらいの時間をかけて学生たちとの会話に当てた。カルガリーにいながらにして日本の現役の学生たちとの交流は、このうえなく楽しい。

学生たちの発言を聞いて、とても印象に残った一つがあった。読み書きや手習いということとなれば、どうしても子どもの姿が対象となる。そこで、絵巻にみる子どもだが、わたしの目には、それらはいきいきとして、貴重でいて、なんともありがたい。この印象にはすこしも疑いを持たなかった。しかしながら、教室の中の学生たちに無理やり子どもの姿を見ての印象を聞いてみれば、なんと「老けている」、「男女の差は小さい」、はてには「可愛くない」と、じつに面食らった、意外なものだった。考えてみれば、思いつくものがないわけでもない。いまごろの学生たちは、少年少女の絵となれば、それこそあの漫画風のものが圧倒的になり、たとえ表現が極端に限られた絵文字といえども、そのような流れを汲んで、大きな目や誇張された表情など、抽象的でいて、視覚を刺激するものばかりだ。そのような描き方をすっかり慣れ親しんだ目には、絵巻の、半分剥落された人物などは、やはりどうしても物足らないと、率直にそう思うことだろう。

思えば極端なほどに仕上げられた今日の漫画風の子どもの姿は、一つの審美観を反映しているには間違いはないが、現実からかなりかけ離れていることを忘れてはならない。たとえて見れば、あの浮世絵と当時の実際の舞台俳優との距離ぐらいはあるだろう。後々の時代の人々の目には、漫画風の顔などは、似たようなインパクトを持つものに違いないと、なぜか漠然と想像したくなった。

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